子どもと生活していると、いろんな番組を観る。
covid-19の緊急事態宣言発令下、無観客のNHKホールで、テレビの前の子どもたちに向かって「いつも側にいるよ!」と語りかけていたワンワンに感動したこともあった。
子どもの頃に観たディズニー映画もひと通り観直した。加えて、大人になって観てこなかった作品も観た。
当然、アンパンマンも観ている。やなせたかし先生の絵本もたくさん読んだ。
クレヨンしんちゃんの映画もほとんど観た。アニメのしんちゃんは、家族、かすかべ防衛隊、個性溢れるご近所さんたちに囲まれて、とても豊かな5歳を何十年間も過ごしているが、映画になるとちょっと違う。映画の中の彼は、大人の勝手にいつも振り回され、苦しめられる。いつも大人に傷つけられているが、持ち前のおバカやお下品をお武器に変えて必死に抵抗している。
私はこれを「所詮、子ども向けのアニメだから」と放っておくことができない。クレヨンしんちゃんの映画を見るたびに、この世界は大人が子どもをイジメているんだと感じる。子どもが本当に自由に生きて、そのまま立派に大人になってしまったら、、、と想像するだけで大人は怖いんだろう。自分たちの人生を否定されかねないから。
クレヨンしんちゃんといえば、放送当初から「親が子どもに見せたくないアニメ」としても有名だった。大人たちの恐れの表れに思う。
野原しんのすけは、子どもの時間を大人に奪われないように抵抗の表現として尻を出し、踊る。それでいて、あんな態度でありながら誰にでもしっかり甘えているところに感心する。
大人にはそんなユーモアはないから、叱るという仕草で大人のマナーを押し付ける。大人たちは、マナーによって抑圧された苦しみを、子どもにも体験させようとする。自分自身の自由のために当たり前に表現をするという単純な日々の営みの気力すら失ってしまったのが大人の実態。
子どもは自由にのびのびと生きるべきだ!と言う人も多いだろう。でも、子どもが「学校に行きたくない」と言い出したら、大人として何をすることが「子どもにのびのびとさせること」になると考えるのか。
私は、子ども向けのダンスワークショップもしてきたし、一緒に作品を創作もしたこともある。そのたびに、子どもの感性というやつを見逃さないように努めてきたつもりだ。親や先生とは違う、期間限定の第三者的な立場から、日常生活で埋もれてしまっている子どもの本能を引き出すチャンスだとも思っていた。ダンスの中では、尻を出して踊ることがかっこいい行為になったりすることがあり得る。実際、私も舞台上でこれまで何度か尻を出してきた。(かっこよい行為になっていたと自負できる感じはない)
しかし、この世界を「大人による子どもへのイジメ」という視点で見つめ直すと、ハッとする。恥ずかしいことに、「私は、そんなことは断じてしていない」と自信をもって言い切れないのである。
大人の都合によって子どもの尊厳が蔑ろにされていると感じる一例は、家父長制。本当に糞食らえと思う。”子供”と”家庭”は切り離して考えなければ、大人の都合の押し付けから子どもを守ることはできない。こども家庭庁、糞食らえ。
これからのダンス活動においても「子どもを守る」ということを忘れずにいきたい。子ども向けのダンスを創るとかそういうことではない。「子ども向け」という言葉がすでに子どもを蔑ろにし、子どもの尊厳を踏み躙っているような気がする。
野原ひろし、野原は広し、な人間でいたい。
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