舞台業界では、公演中止が相次いでいる。
取り止めや延期を迫られた芸術祭や芸術団体のプロデューサー(やらなんやら)が「悔しい」とか「ここまでやってきたのに」みたいなメッセージをSNSで発信しているのを見るが、私はその気持ちを共有することはできない。断腸の思いだか慚愧の念だか言われても、共感できない。正直に言うと。
自分が生きていられる間は、自分の貯蓄を使って自分のペースで創作と発表を続けていきたいと私は考えている。20代はがむしゃらにやってきたが、私自身にとって一番健康的なやり方はこれだということに気がついた。私は自分のペースやモチベーションを大切にしたいし、私の創作を大切にしてくれるスタッフや観客のことも大切だし、これから観に来てくれるかもしれないまだ見ぬ人との出会いも大切だと思っている。何より、家族のことは心から大切だ。家族との時間が私の創作の原動力である。
だから、私は絶対に新型コロナに感染することはできない。そして、全ての人に感染してほしくない。
そう考えて行動してきた結果、私は1年半も舞台に立っておらず、現在延期中の公演もどうなるか怪しい。そのせいでカンが鈍っているのか、最近は家具に体をぶつけることが増えた。舞台上でいつも持っていた緊張感はいずこへ…。
イベントの中止は運営側にとっては苦渋の決断だろう。それは理解する。しかし、今の舞台業界の公演中止のメッセージの中には「私たちは新型コロナのリスクを背負いながら頑張ってきたのに!」というのが含まれているように感じる。
中止の決断の裏には、正直ホッとしたという関係者もいるはずだ。「新型コロナに負けない」という意気込みを強く押し出すばかりで、主催者の決断に振り回されざるを得ない人々の不安に寄り添わないメッセージを読むと、残念でならない。
芸術は、まだ言語化されていない未知なもの、0から1を生み出す創出の場ではないのか?未知なものを創出することには不安がつきものなのに、新型コロナという未知なものに対しての不安は蔑ろにされているように思う。
コロナ禍での上演には〈それでも観に行く人〉と〈観に行きたくても怖くて行けない人〉がいる。上演する側は〈それでも観に行く人〉に照準を合わせて開催していることになる。(ここでは、新型コロナが怖くないという人は一旦放置しておく)
〈観に行きたくても怖くて行けない人〉に対しては「とりあえず今回はゴメンね!なんだったら配信ででも観てね!」というかたちで切り捨てている。新型コロナがおさまったら観に来てねって、それって一体いつなんだ?舞台業界の人たちはそれがいつになるのか知っているのか?
今の舞台業界は観客を選別している。
不安という繊細で重たい感情に寄り添えない人たちから発せられる言葉や身体から、私は何も感じることができない。「あなたも不安だよね?私も不安だよ。でも、私も頑張っているからあなたも頑張ろう!」と言われても何も奮わない。
私たちは「あなたがやる演劇やダンスで人の命を守れますか?」と問われている。
あなたは、舞台を上演することで人の健康を守れますか?
今回のブログは、自分がいる業界に対して悲観的な内容だが、仕方がない。(英語のタイトルにしてみたけど合っているかな…。)
私は、公演中止に悔しさばっかり滲ませてないで、中止することで誰かの命と心を救えたはずだというポジティヴさを持って伝えてほしいと、舞台業界に対して思う。そういうメッセージを発信できる舞台業界であってほしい。
舞台芸術には、上演できてもできなくても0から1を創出する力があると思っている。そういう力があると実演家が信じ続けなければ、舞台芸術に対する世間の目は今後ますます厳しくなっていくだろう。
私は今、いかなる状況でも創出できる可能性を信じることで、自分の創作を大切にすることができている。
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